ナルシシズムと対象喪失

 

 

フロイトが1905年に「性理論のための3篇」を書いたところ、フロイトの考えていた心の発達は、

 

口唇期などやエディプス期、潜伏期、思春期、青年期、成人期、老人期といった性と心理の段階発達モデルだけだったが、

 

そこに自体愛、自己愛、対象愛、同性愛、異性愛といった愛情の対象選択につながる要素を加えて、

 

幅広いモデルを構築することができるようになった。

 

フロイトは、さらに包括的な神経症論全体を完成させるために、1914年の「ナルシシズムの導入」において、

 

自体愛の次の段階に、ナルシシズムという発想を取り込んだ。

 

しかし、この段階ではフロイト理論のなかで自我と対象関係とは明確に分かれていない。

 

フロイトが自我と対象関係を分けて対象との自己愛的な同一化を考え始めるのは、

 

1916年の「喪とメランコリー」で自己愛神経症に関する鬱についての論考を発表したときであり、そこでは対象喪失が重要となる。

 

ただこれはまだ理論的なものに留まっていた。

 

だが、「喪とメランコリー」と同時に、メタ心理学論考が書かれた時期、

 

つまり第一次世界大戦の間に書かれた一連のメタ心理学論考では明らかに自我の理論は、明確に組み立てられている。

 

そして1917年の「入門」で「自我心理学」という概念が登場する。

 

 

 

おそらく、背景には戦争体験があったのだろう。

 

戦争では膨大な人命が失われるからである。

 

対象喪失をフロイトが正面から取り上げたのは、メタ心理学論考のひとつ「喪とメランコリー」においてであったが、

 

そこでは普通の喪の反応とメランコリーの違いを描いている。

 

普通の喪は一年ほどで修復されるが、

 

メランコリーは、対象喪失がナルシス的退行を引き起こして自我のなかの自己愛的な部分を傷つけた形になってしまう。

 

フロイトが強迫神経症と並行して「鬱」のメカニズムに関して述べている箇所を引用しよう。

 

 

 

鬱のきっかけとなるのは、死による喪失という分かりやすい出来事だけではない。

 

侮辱されたり、無視されたり、失望を味わうなど、

 

愛と憎しみという対立が忍び込んだり、

 

すでに存在していたアンビヴァレンツが強められるようなあらゆる状況がきっかけとなりうる。

 

…愛する対象そのものは放棄されたのに対象への愛だけは放棄できないと、

 

その人はナルシシズム的な同一化へと逃げ込む。

 

そして愛する相手の代わりに自我を備給の対象とするが、

 

その対象に憎悪が働くようになる。

 

そして自我を罵倒し、苦しめることで、サディズム的な満足が得られるのである。

 

 

 

ここでは愛と憎しみが両立する形で成立している。

 

親や親族、あるいは恋人といった「愛する対象」が失われても「対象への愛」だけが残る場合、

 

その愛は反転して自分だけを愛する状態になる。

 

そうすると失われた対象に対象に憎しみだけが残り、

 

その対象は自分にサディズム的な攻撃を始める。

 

これが鬱の自責感の説明としてもっとも説得力があるものだ。

 

 

 

そして、ここですべての神経症の形は、

 

対象との関係性がどのように構築されているのか、

 

そしてもし対象が喪失した場合に、

 

どのようにその空白を自己のなかに回収するか、

 

という二点に注目することで説明できることに気がつかないだろうか。

 

 

 

 

引用文献 

 

妙木浩之(2017) 寄る辺なき自我の時代 現代書館