引きこもりやナルシシズムが新たな価値観を生み出す可能性

 

 

現代の私たちにとって世界大戦前に自明な前提であった明晰な自我は、徐々に寄る辺ないものになりつつある。

 

これがフロイトの発見した「ナルシシズム」の現代社会での帰結である。

 

かつてデカルトの唱えた「コギト」は自分自身が考えるということが明証性や明晰さの根拠であり、

 

その根拠を原点として自分の世界を組み立てていくデカルト主義の発想の原点であった。

 

フロイトもその例外ではない。

 

 

 

しかし「自我」は現代社会においては、そこから自立するときの原点、つまりものの見方の原点ではなく、

 

限りなく流動的な周囲の状況に合わせて、引きこもるための小部屋になってしまったように見える。

 

日本のような先進諸国での、子どもの不登校、青年の引きこもりの多さを考えれば、

 

ラッシュの指摘した「ナルシシズム」の時代はかなり現実味がある。

 

インターネットは、こうした若者にとって進歩したテクノロジーとして救いではなるだろうが、

 

その張り巡らされた世界は流動的な状況を強化しているようにも見える。

 

孤独な群衆が住む世界は、グローバルに広がっており、自我はその世界を漂う小さな箱舟のようである。

 

 

 

しかし、ナルシシズム、つまり引きこもりが映し出す病の意味を、他の側面から見直すこともできるのではないか。

 

ルターがその時代を映し出す病としての強迫神経症は、プロテスタンティズムと資本主義とが相互に関連した現象である。

 

もし現代を映し出す病がナルシシズムだとすれば、それは現代社会の価値観をある程度反映させており、

 

インターネットの前に座っている、あるいは歩きながらスマホの世界であらゆる情報とアクセスしている若者たちの価値観は、

 

文字通りある程度、自己愛で説明できる。

 

それはネットの世界で肥大化しているともいえるが、現実世界での関係性は閉じていて極端に狭く、自己中心的だ。

 

だがこの生き方にも、社会的な孤立といった悪い面だけでなく、時代の新しい価値観を生み出す可能性という良い面もあるはずだ。

 

 

 

ナルシシズムを時代の病だとすれば、それを捉え直すための、あるいは治療するための処方箋のようなものはないだろうか。

 

そのヒントは、デカルトの引きこもりとその後の旅が、現代においてどのようなものと対応しているか、ということになる。

 

それは時間をかけて自分自身の自我に閉じこもることの意味が、膨大に張り巡らされたインターネットの情報の海に溺れないためには、

 

必要な時間だと考えることもできるということであり、群衆に埋没しないための方法だともいえる。

 

 

 

現代社会を生きる青年たちの試行錯誤の長い期間の状態を、エリクソンは「モラトリアム」と呼んだ。

 

その言葉の元の意味は、借金の支払い猶予期間ということだが、現代社会ではその旅支度のための準備期間のことである。

 

 

 

ナルシシズムが現代の病だとすれば、結果としての引きこもりは孤立や孤独をもたらすが、

 

その自我の場は時間をかけて自分の内面を内省するための小部屋になる可能性もある。

 

そしてその場から新しい価値観を生み出す可能性もあるだろう。

 

 

 

 

 

 

引用文献 

 

妙木浩之(2017) 寄る辺なき自我の時代 現代書館