大人であることの難しさ(つづき)

 

 

あなたも私も「お子様大人症候群」ではないのか

 

誰でも一度は、あるいは不幸な人はしょっちゅうあると思うのですが、人に迷惑をかける困った人たちに巻き込まれて

 

人間関係に悩んだことがあるのではないでしょうか。

 

困った恋人や隣人、あるいはお客さん、交渉相手などなど、どうしてか、いつもこちらが不快になってしまうような

 

そんな人たち、あるいは、どういうわけか、いつもこちらが怒る羽目になってしまうような人たちと

 

出会うことがあるでしょう。

 

もちろん、理由は相手が悪いだけではない、大人ならこの理解がまずとても大切なのですが、

 

わかっちゃいるけど、相手が悪い、そう思ってしまう、そんな人たちです。

 

確かに、精神分析の立場から、「お子様大人症候群」とも呼べる人たちが増えていると思われます。

 

子どものような大人です。

 

一時期、アダルトチルドレン(AC)という言葉が有名になりましたが、

 

もともとACには「アルコール依存症などの親に虐待された」という修飾語がつきました。

 

ですから、トラウマや虐待による心の傷との関連で作られた言葉です。

 

その意味で、「お子様大人」とは異なります。

 

世界が拡張されてグローバル化している先進諸国で、避けられない問題としてのパーソナリティや生き方に歪みが出てしまい、

 

周囲の人々、社会が抱えなくてはならなくなった人々の症候群だと考えられます。

 

(小此木啓吾著「あなたの身近な「困った人たち」の精神分析」新潮文庫)

 

 

 

おそらく理由はひとつではないのですが、共同体や社会規範が個人を枠づけする力が減るのは、

 

社会全体が豊かになっていけばある程度仕方がありませんし、そのため行き過ぎた個人主義を生み出してしまう、

 

そしてそれを増やす傾向にあるのも、ある程度は仕方がありません。

 

その意味では、現代は大人として振舞うのが難しいのです。

 

ですから、お子様のように扱ってしまう、あるいは周囲がお子様のように対応をしないといけない、

 

そんな人たちが増えていることは間違いありません。

 

 

 

彼らは一般的にパーソナリティ障害と呼ばれますが、大人の感覚をどこかで落としてきてしまった、

 

あるいは育てる機会を失ってしまったらしいのです。

 

その人たちの態度や考え方を列挙してみると、

 

・自分は全てを知っている(万能感人間)

 

・自分が世の中で一番重要で、自分のことが好きだ(自己愛人間)

 

・自分の失敗を含めて、他人が悪いと思っている(他罰的人間)

 

・自分がうまくいかないのは、周囲の人々や環境が邪魔しているからだ(被害妄想人間)

 

と考えやすい。

 

そのため自分勝手で、自分の欲求にまかせて人に暴力を振るったり、セックスを強いたり、

 

あるいは周囲に合わせることなく本心を剥き出しにしてしまったりします。

 

あるいは暴力的になって人を攻撃する、いわゆる「キレる」行動をとってしまいます。(注Ⅰ-1)

 

 

 

(注Ⅰ-1)この文脈では、経済的に豊かになって、グローバルな資本主義を享受している先進諸国だけでのことです。

 

世界にはイデオロギーが暴力として個人を抑圧している社会がたくさんあります。

 

そうした社会では、大人しいだけが大人だとする傾向があります。

 

国民が羊やロボットでしかないような、そんな極端に居心地の悪い社会、革命の一歩手前の国もありますから、

 

個人が過剰流動性乗除分を得ている先進諸国の個人についてのみこの現象は当てはまります。

 

 

 

こうした人たちは、自分も困っていることもありますが、大半は周囲の人間をとても困らせます。

 

先進諸国では経済的に豊かになってきたおかげで、犯罪率が減っていますが、

 

パーソナリティ障害の分類名は増えているので、きっとその人たちのために人間関係に悩む人が増えているのです。

 

そのため人間関係がぎすぎすしてしまって、社会が安心かどうか微妙なところです。

 

今の社会は全体に、そうした傷つけあう関係をもたらす人たちが増えているのです。

 

 

 

でもちょっと待ってください。

 

その人たちが増えている、つまりみんなが大人になるのが難しいからといって、

 

私たちが同じように「お子様大人」になっていないかどうか。

 

考える必要があるのは、この点です。

 

 

 

先日、私は道で、ある人にぶつかりそうになりました。

 

するとその人はちっと舌打ちをしました。

 

舌打ちというのは、赤ちゃんが母親の母乳を吸おうとして、それが得られないので、不満を感じて舌が空を打つような行為です。

 

おっぱいが空っぽで不満を露わにしてしまう、とても幼児的な表現行為です。

 

赤ちゃんのような行為が攻撃性の表現になった、だから自分の不満をぶつけるだけの、他人にとても失礼な行為なのです。

 

 

 

とっさに私は、「この人はパーソナリティに問題がある」と思いました。

 

思うに、「お子様大人」、つまり社会規範や相手の気持ちを無視して、自分の快不快、

 

満足や衝動の立場からだけいつも発言する、そんな人だ。

 

 

 

でも、そこで少し立ち止まって考えました。

 

精神分析家として、こう考えている私の方が実は変ではないか、そう気がついたのです。

 

こうやって考えている私、つまり不愉快に思った私は、彼女が行った行為は確かに子どもっぽいし、お子様大人であったとしても、

 

それを怒っていて、彼女がおかしいとまで思おうとしています。

 

勢い「パーソナリティ障害だ」とまで思いかねない。

 

ちょっとすれ違っただけで、それほどこの人のことを知らないのに、です。

 

 

 

精神分析の診断

 

人の障害を診断するには時間もかかりますし、精神分析であれば精神分析的な専門知識も必要です。

 

今日、精神分析は、患者となる人たちの訴えを、国際的な精神分析諸学会が作った「心理力動的な診断マニュアル

 

Psychodynamic Diagnostic Manual(以下、PDM)」がそうであるように、

 

精神機能、パーソナリティ傾向および障害、そして症状(その主観的な理解)の3つのベクトルから、

 

多軸診断によって見ようとしています。

 

症状だけでは、どうしてもパーソナリティが生じている問題を見落としてしまうので、

 

一人の人をいくつものアスペクトから見るようになっているのです。

 

 

 

精神機能の軸は、どちらかというと私たちがお勉強をするときの心の側面で、

 

これは児童期(あるいは潜伏期)に積み重なって獲得する学習や社会技能の素地から人を見ることで評価できます。

 

学習障害や発達障害といった概念はよく知られています。

 

 

 

それに対し、パーソナリティ傾向や障害の軸は、その人がもっている生まれながらの気質と乳幼児機に始まる親との愛着関係、

 

環境との相互関係、そしてその結果生み出される対象関係の繰り返しによってつくられる反復のパターンです。

 

このパターンの基盤のようなものは、主に乳幼児期にできると考えられていますが、

 

環境との相互関係が基本的なパターンを作り出すので、養育や家族関係はとても重要です。

 

興味深いことですが、パーソナリティが柔軟で、環境の合わせてそれを変化させられることが、健康な人の特徴です。

 

つまり、柔軟な人はパーソナリティに幅があります。

 

 

 

性格心理学でしばしばいわれていることですが、パーソナリティというのはそれほど通時的な概念ではなくて、

 

人は状況や場面、相手によって役割を使い分けているのが普通です。(サトウタツヤ、渡邊芳之著「モード性格論」紀伊國屋書店)

 

パーソナリティの語源の一つの「ペルソナ」はギリシャ悲劇で演者が使う仮面のことですから、

 

日常生活で仮面をあまり頻繁に変えるのも筋がわからなくなりますが、

 

場面や脚本に合わせてそれをつけかえることも、程よい人格を演じるためには必要です。

 

たとえば、真面目な母親ばかりやっていると、妻であること、女性であること、何より人間であることを忘れかねません。

 

適当に役割を演じること、それが順応であり、適応です。

 

ある程度仮面をつける、うそと本当の姿とを分けてもつ能力は重要です。

 

 

 

逆に言えば、パーソナリティ障害の人たちは、強固で、より固定的で明確な性格構造をもっているといえます。

 

ですから、他人に対して融通が利かないので、周りの人たちが困ってしまうのです。

 

でも、これを診断して治療し、より柔軟な構造に変化させるのはかなり時間もかかりますし、

 

強力な治療的関係の提供による変化が必要です。

 

 

 

すれ違っただけで、私は彼女を「パーソナリティ障害」や「いまどきの若者」に押し込めようとしていたわけですから、

 

かなり間違ったことをしているのはおわかりだと思います。

 

あの場面では、明らかに私のほうが不愉快さに巻き込まれてしまっていて、お子様大人でした。

 

 

 

私たちは、恋愛や暴力などの快不快の直接的な体験に出会うと、どうしてもこうしたお子様大人になってしまう、

 

これは精神分析を考えるうえで、重要な現象です。

 

直接的な体験は、人を強力に動かします。

 

そして、すぐに反応してしまう。

 

立ち止まって考えるための能力が奪われてしまうのです。

 

 

 

症状の裏側にあるもの

 

この現象は、心の症状に悩んで治療を求めてくる人たちに対応するときにも、同じことがいえます。

 

症状の話は、聞いているとどうにかしてあげたくなるものです。

 

 

 

PDMにおける症状の軸は、その人の体験、ストレスや内外の外傷的な体験によって作り出される防衛から生じます。

 

これは主観的なものなので、程度の差があります。

 

軽いものであれば、たいていは焦りや不安、あるいは身体的不調が前面になって出てくることが多い。

 

ですから、症状には「心身症」と呼ばれる、体の不調をメインにした心の病気があります。

 

また、「不安障害」と呼ばれる、興奮や焦燥感、不安などを基盤にして生じるお大きなまとまった群があります。

 

従来は神経症と呼ばれていました。

 

昔はヒステリーと呼んでいたパニック障害、あるいは不安発作や強迫性障害などがここに入り、

 

自分が不安で焦ってしまう、興奮して二進も三進もいかなくなってしまうという心理状態をもつ障害群です。

 

 

 

進化のなかで、そうした悩みは、私たちの思考プロセスの獲得と同じくらい古く、しして今も存続している問題です。

 

特に神経症を中核として、本人を主観的に苦しめてきた長い歴史を持っています。

 

彼らは、

 

・無理をして過剰適応しているので体を壊している(心身症人間)

 

・自分は環境に合わせられない(適応不全人間)

 

・自分は失敗やいけないことをしている悪い人間だ(罪悪人間)

 

・自分は人よりも劣っている(劣等感人間)

 

・自分は傷ついていて、その傷に触れられない、あるいは忘れられない(トラウマ人間)

 

・自分のことが自分でわからない(同一性拡散人間)

 

といった問題を抱えやすいのです。

 

 

 

また、強迫症状のように何かを考えたり、行動したりすることがやめられない行動上の問題群があります。

 

また、ご存知のように、「うつ」症状のように気分に関する問題群もあります。

 

今日、うつ病の人が増えています。

 

それに加えて、統合失調症がそうであるような、特別な思考の障害もあります。

 

統合失調症は、調子が悪いときには主観的に病気の意識がなくなってしまって混乱状態に陥りますが、

 

妄想や幻覚など、強力な主観的な症状をもっています。

 

 

 

こうした症状は、本人が一番困っている、自分のものではない、コントロールできないものであることが多いので、

 

症状、症候をまず早く取りたいと思って、そのために治療に訪れることが多いのです。

 

 

 

こうした悩みに関していえば、症状をとるために、この100年の間に、精神分析以外にいろいろな治療技法が開発されてきました。

 

症状に焦点を合わせた治療法としては、認知行動療法や解決志向療法などが有名です。

 

ものの見方を変化させて、問題や症状を解決に導く簡便な方法です。

 

また、気分の障害や思考の障害に関していうと、抗うつ剤や抗精神病薬が開発されるようになって、

 

気分や思考の歪曲を脳の伝達回路のレベルでかなりブロックできるようになってきています。

 

 

 

でも、便利になったから、という理由で急いでそれを除去しようとすることが、本当に正しいのか、

 

たとえば診断に戻ってもう一度考えてみる必要もあります。

 

一番厄介な問題は、先ほどの多軸診断がつくられた背景でもあるのですが、

 

こうした症状をもっていて悩んでいる人たちのなかに、少なからず、パーソナリティの歪みをもっている、

 

あるいは社会技能が低い人がいるということなのです。

 

彼らは、周囲に溶け込むために、それなりに、自分なりに困っていますから、カウンセリングや心理療法、精神分析を訪れることがあります。

 

でも、症状を取ることが、より深刻なパーソナリティの問題を露呈させることもあります。

 

あるいは、本人以上に周囲の人たちが「困った」と思っていることが多い。

 

そしてその「困った」お子様大人たちの症状だけを取ろうとして、先ほどの簡便な治療法を用いて解決する、

 

つまり、積極的にしたり、元気にしたりする、あるいは薬で回復させてしまったりすると、どういうことになるのか。

 

少し考えていただければわかりますが、

 

周囲の人たちは、パワーアップしたパーソナリティ障害や発達障害の暴走にますます困ってしまうという悪循環に陥ります。

 

(精神分析で多軸診断、あるいはしっかりと査定して、パーソナリティの軸も含めて、全般的に人を理解するようになっている背景が、

 

このあたりにあります)

 

 

 

簡便な治療、あるいは効果のある処方は、症状の意味や背景よりも、その痛みや苦しみをできるだけ早く解決して解消することを目指しているので、

 

抗生物質や鎮痛剤のような即効性の薬に近いもので、医学的には正しいことがほとんどです。

 

でも、パーソナリティ障害の人の症状は、それだけを取ると、むしろ大きな問題の方が本人や周囲に投げ出される形になってしまうのです。

 

 

 

精神分析は、症状がある場合、その裏側にある葛藤や欠損に目を向けることから診断や査定をしていく。

 

つまり、どちらかというとパーソナリティと精神機能のなかで、つまり乳幼児期から児童期、

 

そして青年期の間に形成される累積的な反復パターンを基盤にして、防衛や症状を取り扱っていくことが多いと思います。

 

それは、症状の除去がその人全体の生態学のなかでどのような意味をもっているのかがわからなければ、別のところで問題が起きるし、

 

同じことがモグラ叩きのように当人の人生やその周囲で繰り返されてしまう、そう考えているからです。

 

 

 

その意味で、精神分析にとって重要な領域の一つは、倫理とか道徳といわれるものと関連しています。

 

より正確には、生物学的な本能衝動と関連した道徳の理論、倫理学が密接に関連した領域として、精神分析があるのです。

 

 

 

精神分析は、精神医学や心理学ではなかったのかな、と思っていた人には意外かもしれませんが、

 

私たちの道徳や倫理を心の全体的な構造の中で論じた数少ない心理学理論、と精神分析をいいかえてもいいでしょう。

 

 

 

症状に陥った本当の原因が、その人のパーソナリテイ、精神機能と関連した生き方、周囲との関係を含めた人間関係だとして、

 

精神分析は、それを治療空間に持ち込んで、長期的に腰を据えて取り組もうとします。

 

設定として、少なくとも週に1回以上、できれば週4回以上の頻度で、寝椅子という特別な設定を用いて、

 

転移と呼ばれる治療関係を取り扱うなかで、その人が自由に語れる言葉を見出すための、長期的で集中的な方法であり、

 

その理論はそのフィールドから生み出されたものです。

 

 

 

この技法的設定が求められているのは、先ほどのPDMを見ていただければわかるように、私たちのパーソナリティも精神機能も

 

そして引き金になる症状にも、人間の生物としてのあり方と社会的なあり方が密接に関連している、

 

だからこそ「すべき」、「あるべき」人間の姿を論じるには、「したい」という個人の本能衝動や欲求、

 

そしてさらにはその個人が属する社会のあり方や文化のあり方との関連で、その人の「人となり」を論じるしかないと考えているからです。

 

だからこそ精神分析は、社会の道徳と個人の本能衝動、さらには欲望を同時に語れる数少ない理論であり、

 

しばしば人が「どうあるべきか」といった哲学や倫理学、理想と近いところでこの学問が論じられてきたのも、そのためです。(注Ⅰ-2)

 

 

 

 

引用文献

 

妙木浩之(2010) 大人のための精神分析入門  PHP新書