心と言葉が、人生を物語にする

 

心とか言葉とかと一言で言いますが、その定義には様々ありすぎて、すべて網羅できるものではありません。

 

心とはなにかを思い、そして意図しよう、意味しようとしている装置であると思います。

 

そして、「心は裏の意味である」と単純化して定義づけると、その心は背後にあって表にははっきりとあらわれていない。

 

日本語で「うら悲しい」「うら淋しい」といように、

 

どことなく、後ろのほうで、隅で、奥で体験している、という意味の「心(うら)」。

 

そういった空間を「心(こころ)」と呼ぶと、それはそれを体験している本人以外の人には説明されないと分かりません。

 

本人がこうこうこうということですと言ってくれると、「ああ、なるほど、そうだったのか」と思うことがよくあります。

 

ここで言う「心」はそういう裏にある意味のことです。

 

しかし、簡単に表にでるものではない、あるいは表現できるものではないこのような心の部分は、目に見えないし、証明もしにくい。

 

心理療法では、心のありように意識と無意識の2つの領域を認めて、心の動きを観察し、

 

心の裏側、心の見えないところ、普通はあまり意識されていない領域のことについて言葉で取り扱い、考えていきます。

 

では、心の裏の意味を言葉にすることで得られるものとは何でしょうか。

 

まず、目に見えないものに名前をつけることで、それが取り扱いの対象になるということ。

 

それによって心の動きを観察できるようになります。また、言葉にすることで、溜まっているものを外に出すことができること。

 

これは「カタルシス効果」と言います。

 

鬱積していた情緒や思いが吐き出されて、心がすっきりする。

 

そして、言葉によって意識化できることで、裏の意味、裏の心が言葉によって表になる、操作の対象にできます。

 

さらに、言葉にすると整合性を求められ、筋を通すことになる。

 

ただ、心のなかには、いろんなことが同時に浮かんできます。

 

しかし、言葉はひとつのことしか言えません。

 

「愛しています」とは言っているけれども、同時に憎んでいることだってある。

 

ひとつのことを言うことは、片方を抑えつけてしまっている、あるいは片方を失っているとも言えます。

 

だから、言葉にすることでは心は部分的にしか表現されない。百万言尽くしても言いたいことが言えない。

 

それが言葉でもあるでしょう。

 

 

 

しかし、言葉の最大の利点は、自分の人生を自分の言葉で語ることができるということです。

 

言葉にしながらこれまでの人生を噛みしめることができ、<私>を支えてくれる。

 

言葉は、人生を物語にするのです。

 

それが悲劇であっても、もう一度その悲劇について考えることもできるし、語り直し、紡ぎ直すこともできます。

 

 

 

 

「最後の授業―心をみる人たちへ―」 北山修著