有益ではない関わり

 

 

注意深くないこと

 

私たちは、たいてい自分自身のことや仕事にかまけて、他者に十分な注意を払わないものです。

 

起こっているコミュニケーションが見えなかったり、聞こえなかったりするかもしれません。

 

見聞きはしていても、注意を向けないこともあるでしょう。

 

次の例がこれをよく物語っています。

 

4歳のポールは、紙に落書きをしていましたが、次にインクを机になすりつけます。

 

しばらくすると、他の子に向かってペンを投げつけます。それから、今度は壁に向かって投げつけます。

 

先生は忙しくて、気づきません。

 

するとポールは床にひっくり返って、金切り声をあげて、足をバタバタしはじめました。

 

ポールの行動が次第にコントロール不能になっていく様を、彼が破壊的感情を自分でコンテインできないでいることを

 

表現しているのだとみなせるでしょう。

 

彼は、自分のニードをわかってもらおうとしているようですが、誰も注意を向けません。

 

そこでだんだん暴力的になっていき、コントロールが効かなくなって、ついには癇癪を起こしてしまっているのです。

 

つまり、感情がまったく手に負えなくなっているのです。

 

先生がやってきて話しかけ、身体を抱きしめてくれて、ようやくポールは落ち着けたのです。

 

他の例もあります。

 

この14歳の少女は、興味本位でドラッグを使うようになっていました。

 

ある時は非常に眠くなり、またある時は活動的すぎる状態になるのですが、彼女の両親は気づきませんでした。

 

ドラッグ仲間から度々電話があり、両親が聞いているところで大声で話をしていました。

 

両親は、それでも、介入するのを恐れていたのです。

 

しばらくして彼女は、自分がドラッグ中毒になってしまうのではないかと怖くなり、ある日、両親の部屋に飛び込んで言いました。

 

「どうして止めてくれないの?私のことなんか、全く気にしていないの?」

 

時にこういう思春期の子どもは、なかなか気づくチャンスをくれません。

 

それでも暗に助けを求めているのに、私たちが気づかないのは、自分に関心や理解がないためだと体験しているのです。

 

非行や暴力の末、警察や他の関係機関を巻き込むことになるのですが、

 

これは衝動性をコントロールするのを助けて欲しいよいう切羽詰まったニードを、私たちに知らしめるためなのだといえるでしょう。

 

 

 

寛大すぎること

 

大人の中には、子どもの破壊的で残虐な、あるいは搾取的な態度や振る舞いを許すことで、

 

自分がかなり我慢強いと感じている人がいます。

 

このような寛大さは、有益ではありません。

 

自分や他の子どもに対する暴君のような行動を我慢している教師は、生徒を安心させるどころか、そうした行動に賛成しているか、

 

さもなければ、怖くて行動を制限できないのだと言っているようなものです。

 

援助食につく人の多くは、実際、敵意や貪欲さ、怠惰といったことをあまりに簡単に受け入れてしまい、

 

無責任さを助長することになります。

 

しかし、そんなときでさえ、自分が親切で施す人だと変なプライドをもっているようです。

 

子どもがコントロールできない行動に翻弄されているかもしれないとき、教師が行動を制限しないと、

 

子どもは一人で自分の破壊的感情に対処せざるを得なくなることをわかっていないのです。

 

教師が行動を制限し、境界を引いてやると、たいてい事態はかなり緩和されるのです。

 

 

 

反応すること

 

投影された感情に圧倒されると、私たちはそれを排除し、仕返ししようとするかもしれません。

 

たとえば、拒絶には拒絶で、恐れには脅しで、絶望には回避で反応するかもしれません。

 

他者の感情に影響されて怖くなったり、落ち込んだりしていることに気づくと、それを否認するという手段を取りがちです。

 

たとえば、抑うつには、そこから抜け出せるように楽しませる。

 

拒絶には、宥める。

 

恐怖には、何も怖がるものはないというふりをするのです。

 

こうした行動は、実はそういう感情を受け止めがたく、耐えられないのだと暗に示すことになります。

 

そのためそうした感情を否認したり、制止したり、抑圧したりするのを奨励しているようなものです。

 

もし希望を持っていれば、他者をそうした気持ちのコンテイナーとして使おうとするかもしれません。

 

ですから、つらい感情によく耐えられる教師は、

 

生徒が他の教師の前では表現できないネガティブな態度の受け手になるかもしれないのです。

 

 

 

自分に依存している人へ痛みを投影すること

 

最悪の状況では、教師(または他の援助者、親)が、

 

生徒(または子ども、依存している人)を自分自身の耐えがたい感情のコンテイナーとして使います。

 

次のような例があげられます。

 

自分が抱く羨望に耐えられない教師が、生徒に羨望の念を喚起する。

 

あるいは、恐怖心の強い教師が、ホラーストーリーを聞かせて、子どものこころを恐れや恐怖、悲壮感でいっぱいにする。

 

これほど有害ではなくても、やはり深刻な例として次のようなものがあります。

 

自分の依存性に耐えられない教師が、生徒を必要以上に依存させるか、あるいは生徒の依存状態を長引かせる。

 

嫉妬を抑えられない教師が、常にお気に入りの生徒を作って、他の生徒の嫉妬を喚起する。

 

ある生徒を自分の欠点の具現だとみなす教師が、その生徒を嫌悪する。

 

こうした状況は全て、生徒が自分の問題を把握するのをとても難しくしています。

 

実際、教師の分と自分の分と、2人分の苦痛を引き受けさせられることになるのです。

 

こういう教師をあっさり避ける生徒もいるかもしれません。

 

うまく避けられなかったり、避けるほど強くない生徒もいるでしょう。

 

 

 

 

引用文献

 

イスカ ザルツバーガー‐ウィッテンバーグ (著), E. オズボーン (著), G. ウィリアム (著), 平井 正三 (翻訳), 鈴木 誠 (翻訳), & 1 その他(2008)

 

「学校に生かす精神分析」 岩崎学術出版社