学ぶことの精神的苦痛については、メラニー・クライン(Melanie Klein)とウィルフレッド・ビオン(Wilfred Bion)という精神分析家の
業績の中心的なテーマです。
ビオンは、個人とグループを対象にして精神分析の仕事をしてきました。
その中で彼は、自分が感じさせられているものは、
実は個人やグループが苦痛を耐え難いと感じている、そのパーソナリティの部分なのだと気づきました。
簡単に自分の問題を捨ててしまいたいと思って、他人の中に投げ入れる人がいます。
ある人を自分の感情のゴミ箱にしてしまうと、今度はその人を恐るようになるか(ゴミを投げ返されるかもしれないという恐れ)、
あるいは今やその人やその人がゴミそのものになったかのように、軽蔑的に扱うかもしれません。
しかし自分の苦悩が理解され、自分がそれに持ちこたえるのを助けてもらえるかもしれないという希望を持って、
受容的な人に自分の苦悩を伝えようとする人もいるでしょう。
ビオンは、感情を他人の中に生じさせるという現象は、メラニー・クラインの投影同一化の理論が納得のいく説明をしていると
述べます。
つまり自分のパーソナリティの一部を分裂排除して、他者の中に投げ入れるという(無意識的)空想があるのです。
ビオンは、この精神機能は、不安や葛藤を引き起こすパーソナリティの部分を伝えたり、投げ捨てるために使われると言います。
このメカニズムは、空想の中だけでなく、実際に、結果として受け手から望みどおりの反応を引き出すような行動様式となります。
ビオンは、人生のはじめから、赤ん坊が母親の中に自分が持っていたくない感情や、母親に感じて欲しい感情を抱かせる行動を取る
力があると信じていました。
この行動で、母親は赤ん坊を理解でき、ニーズに添って応えることができるのです。
このように他者のコミュニケーションを受け入れるためには、相手の感情に触れていることが必要です。
相手の感情に気がつかなければ、適切な手がかりを見落とすか、歪んだ形で認識してしまいます。
一方、不安の受け手になっても、その状態に持ち堪えきれないと、自分の中に投影された感情に圧倒されてしまうかもしれません。
このようにして相互作用を見ると、明らかになってくることがあります。
つまり生徒や生徒集団が与える印象は、実は生徒が私たちに抱いてほしい種類の感情かもしれない。
そういうことに気づかせてくれるのです。
この感情は、理想化や尊敬をはじめ、あらゆるポジティブな関係性の側面を表現していることもあります。
しかし私たちに預けられる感情の多くは、よるべなさ、混乱、パニック、罪悪感、絶望、あるいは抑うつなど、
相手が耐えられないか、自分だけでは保持しきれないような感情です。
人は、こうした感情を抱く自分を、助けてくれる人を必要としているのです。
この苦痛に満ちた感情が他者に受け止められ、理解されることで、人はそれを直視できるようになり、
耐えることもできるのだという希望が与えられ、成長や発達が促されるのです。
これは、ほど良い母親が、わが子のために果たす役割です。
D. W.ウィニコット(Winnicott)は、乳児の精神発達を促進するためには、乳児が母親に身体的にも情緒的にも
抱きかかえられる必要があることを強調しました。
そうすれば乳児は、自分で不安に対処することを学ぶことができるだけの、時間的な猶予が与えられるのです。
クラインは、乳児の複雑な精神生活について解明し、乳児には、自分の生来の破壊的な要素に持ちこたえる(contain)能力に
限界があり、そのために攻撃性や不安を投影できる母親の存在が必要であることを明確にしてきました。
こうして彼女は抱きかかえる機能の情緒的な中身を明らかにしてきたのです。
母親が、自分の中に投げ込まれた苦痛に圧倒されず持ちこたえることで、子どもが恐れる破壊的な気持ちや不安を受け入れる器
(container)として機能すると、クラインは述べています。
母親が子どもに優しく応えつづけることで、
子どもには、自分の中にある恐ろしい部分を、バラバラにならず抱える力のある人がいる、と伝えることになるのです。
子どもは、自分の不安や攻撃性や絶望が受け止められ、包み込まれることに気づくことで、
自分が恐ろしいと感じ、あるいは拒絶したい側面と共に生きられる人が実際に存在するということを、
情緒的次元で理解できるようになるのです。
そして自分のその部分は、万能ではないと感じられ、恐ろしさが減っていきます。
つまり愛情や思いやりが和らげてくれると感じられるのです。
こうして乳児は、もっとも痛ましい状況から脱していきます。
不安が和らげられると、乳児は、受け止める器としての母親(container-mother)を内在化でき、
自分自身の中にある側面を自分で抱えられるようになります。
そうして乳児の内的世界はより扱いやすく、豊かになっていくのです。
ビオンは、器としての親の行為に、考える人としての機能を付け加えました。
つまり、ただ世話をしたり、心配したりする能力だけではなく、さまざまな感情について、考え、明確にし、区別する、
そういった能力です。
ビオンは、“思い巡らすこと(reverie)”と名付けた母親の想像力に満ちた内省が、母親をして、乳児の体験のさまざまな要素に
意味のある結びつきをもたらしめるのだと言います。
彼は、考え(thoughts)と、考える人(thinker)を区別しました。
乳児は、早期から身体的体験と結びついた無意識的空想、すなわち一種の原始的思考過程をもっています。
しかし無意識的空想が圧倒的に苦痛で、混乱し、どうすることもできなくなると、排泄してしまいます。
このような体験にただ耐えるだけでなく、精神的に消化して意味を与え、考える人になるために、体験の性質を整理して
明確にしてやることも親の機能です。
そうなると乳児は、感情の器を内在化するだけではなく、考えを保持できる心も内在化します。
自分の苦悩が他者に理解され、解毒してもらうという体験を繰り返した人は、次第に自らの情緒的苦痛により一層持ち堪えることが
可能になり、
完璧に圧倒されてしまうことが少なくなり、自分の体験について考えられるようになるのです。
一方、感情を理解されない体験が継続的に起こると、広大で果てしない不安、
ビオンが言う「名づけようのない恐怖(nameless dread)」を心の中に取り込んでしまうことになるでしょう。
乳児の心が意味づけられない不安の重荷を扱いかねると、情緒や空想をさらに排除せざるをえず、その結果、
心は無思考のままにされてしまいます。
このクラインとビオンがもたらした理論は、すべての学ぶプロセスでの情緒的要因を理解する上で、大きな意味があります。
教師の仕事は、親の機能に似ていると考えられるでしょう。
つまり、ストレス状況にある生徒の過度の不安に対して、一時的な器として機能するわけです。
教師は、学ぶことにつきものの精神的苦痛を自分自身体験しつつ、
それでも混沌に直面しても好奇心を、未知の恐怖に直面しても真実への愛を、絶望に直面しても希望を維持する手本であり続ける。
これが重要なのです。
そうできたら教師は、学ぶことにつきものの不確かさに耐える能力を育む状況を生徒に与えられるのです。
ビオンの精神生活と人間の相互作用の理論に従えば、ベストな状況は、学ぶことは継続的で相互的な過程であるという考えに至ります。
生徒の観念や思考は、ことに生徒が消化しきれないほどの知識に圧倒されているときに、それを秩序づけるサポートをする教師によって
育まれます。
準備した答えを与えるのではなく、データを参照し、考える教師の能力で、生徒は「考える人」を内在化できるようになります。
すると生徒は新たな考えや意味づけを見出していくことになり、教師は、自分の教科に関する新たな思考の化合物がもたらされます。
新しい生徒、新しいクラスに心を開き続け、知らないことを探索し続けるなら、生徒と教師と課題との三者の関係は、
厳しくても、ワクワクするような体験になり、ずっと学び続けられるようになるでしょう。
子どもが親に与える豊かな学びの機会と、そっくりなのです。
引用文献
イスカ ザルツバーガー‐ウィッテンバーグ (著), E. オズボーン (著), G. ウィリアム (著), 平井 正三 (翻訳), 鈴木 誠 (翻訳), & 1 その他(2008)