学ぶことと精神的苦痛

 

 

積木の塔を積み上げる保育園児たちを観察してみましょう。

 

たとえば、ある男の子が、一つの積木の上にもう一つの積み木を載せようとしても、すぐにくずれてしまいます。

 

もっと注意深くやってみるようにと先生に励まされ、もう一度試みます。

 

そしてうまくいったことに興奮して、もっともっとと積み上げていきますが、最終的に倒れてしまいます。

 

子どもによって、この状況での反応はさまざまです。

 

ロバートは、ここで泣き始め、やがて漫然と別のおもちゃの方に向かいます。

 

マイケルは、次にもう一度塔を建てるやいなや、倒れる前に、わざと叩き壊してしまいます。

 

まるで彼は、自分がやろうとしていたことができなかったのを認めるよりは、むしろ、

 

始めから自分の意思で木を倒すつもりだったといわんばかりです。

 

また別の時には、積木が自然と倒れると、彼は積み木を打ち合わせ、怒って部屋のあちこちに巻き散らかします。

 

ティモシーは、最初の失敗ののち、積み木のサイズや位置をもっと丹念に調べ、

 

なんとかいくつもの積み木を安定して積み重ねることができるまで、何度も繰り返し試みます。

 

この保育園で観察されたのと同じような振る舞いが、後々残るとすれば、

 

これらの子どもたちについて学校の通知簿でどのように記載されるか、想像ができます。

 

ロバートは諦めやすく、イライラしがちで、気が散りやすいと言われるでしょう。

 

マイケルは、完全でないと全て上からぐちゃぐちゃに書き潰してしまうため、ノートがいつも乱雑だと評されるでしょう。

 

批判に耐えられず、物事が思う通りにいかないと攻撃的になると言われることでしょう。

 

ティモシーは、集中力があり、課題に対して丹念に辛抱強く取り組めると報告されるでしょう。

 

子どもに認められるこのような決定的な違いは、何らかのスキルを習得する際につきものの、

 

成功できない時の反応の仕方にあります。

 

ロバートはやけになり、マイケルは事態をコントロールしようとして、怒りっぽくなります。

 

一方、ティモシーは、経験を通して、遊んでいる物の性質やその関係性について、もっと好奇心を抱くようになります。

 

別の見方をすれば、ティモシーは問題に取り組むために、希望の源を自分自身の中に見出せます。

 

しかしその一方で、他の子どもは、欲求不満や無力感に圧倒されてしまうと言えるかもしれません。

 

ロバートは課題を投げ出すことで、この感情から逃れようとし、

 

マイケルは、自分がコントロールできると感じられるように、状況を操作しようとしていたのです。

 

 

 

学ぶことは、いまだ知らない状況や、目指していることを達成できない状況で生じます。

 

したがって、不確かさや、ある程度の欲求不満や失望をともなうことになるのですが、

 

この体験は苦痛に満ちたものです。

 

それが持ち堪えられないほどのものであれば、ロバートのように避けようとするかもしれません。

 

またマイケルのように、万能感と怒りで対処することになるのです。

 

 

 

成長するにつれ、振る舞いはもっと洗練されたものになっていきますが、

 

困難な学習状況に直面した時に、私たち大人が取る基本的な態度は、ここに挙げた子どもと非常に似ています。

 

私たちはときに、不確かなものに取り組むのを避けようとして、単純な答えを求め、欲求不満に怒り、

 

努力するのを簡単に放棄してしまいます。

 

 

 

教師のための講座のメンバーが、第3回目のセミナーで語った事に、耳を傾けてみましょう。

 

「蜜月」期間は2回目か、遅くとも3回目までには終わってしまうことが分かります。

 

その頃までにグループは、講座が提供する事柄についての現実や、これから学んでいく主題の複雑さに直面し始めるのです。

 

そして欲求不満や失望が前面に出てくるのですが、それは以下のような言葉で表現されます。

 

「こういったことはとても興味深いのですが、私が知りたいのは、クラスにいる破壊的な生徒をどう扱っていくか、

 

ということなんです。それはいつ話してくれるのですか?」、

 

「教育者としての仕事は、問題のある子どもたちを、まともにするということですよ。

 

だから、どうやったらそれができるのかさえを教えてもらえたらいいのです」、

 

「私たちは本当にいろんな背景を持った子どもたちを受け持っているのです。どうしたら、

 

こうした子どもたちの家族を変えることができるのかを知りたいのです」、

 

「私は仕事がもう手に負えなくなっていて、退職すら考えています。クラスが騒々しくなるとお手上げで、

 

取っ組み合いを続けさせるか、喧しい子どもたちを校長のところに連れて行くしかないんです」、

 

「辛抱強く、優しくなりたいのですが、たまには堪忍袋の緒が切れてしまうんです。どうして自分が、

 

ある種の子どもたちにこんなに動揺させられ、苛立ってしまうのか、知りたいのです」、

 

ここには、なぜだろうと問い、起こっていることを理解しようとする声が一つしかありません。

 

グループのメンバーの大半が、性急な行動に走りたがっているようです。

 

まずは子どもたちの行動の意味を理解する必要があるのだと言うと、

 

「こちらの注意を引こうとばかりする子どもに、どう対処すればいいのか、直接的で現実的なアドバイスは

 

まだ何ももらっていません」といった不平が、ますます大きくなります。

 

教師が対処しなければならない大変難しい子どもたちと、多くの憂慮すべき状況、

 

暴力、自殺企図、怠学・非行傾向の少年少女、学習したがらないか、学習できない子どもたち、

 

絶えず教師の注目を要求する子どもたち、等に関するケースが次々に挙げられます。

 

まるで、生徒と教師の間にある関係性を理解することよりも、むしろ即時的な解決方法こそが求められているのだと

 

納得させようといわんばかりです。

 

悲惨な状況にいる子どもや、恵まれない子どももいれば、ただ厄介者という感じの子どももいます。

 

しかし教師は、自分が受け持つクラスの子どもだけに悩まされているのではありません。

 

両親から(また自分自身からも)、教師とは子どもを成熟した人間に育てる全責任を負い、何か魔法でもかけて、

 

子どもを変えることを求められているのだと感じているのです。

 

なかには早く学校をやめたいと思っている子どももいますが、社会は子どもが規定の年数のあいだ学校に通うことを定め、

 

そうすることを求めています。

 

教師は、そうしたプレッシャーを受けているのです。

 

 

 

 

 

参考文献

 

イスカ ザルツバーガー‐ウィッテンバーグ (著), E. オズボーン (著), G. ウィリアム (著), 平井 正三 (翻訳), 鈴木 誠 (翻訳), & 1 その他(2008)

 

「学校に生かす精神分析」 岩崎学術出版社