「疲れた」の心理

 

「疲れた」という言葉には、2つの意味があります。

 

一つは、本当に肉体的に疲れてしまう場合です。たとえば、ふだん歩きつけない長い道をハイキングで歩いて、

 

その後、本当にくたびれてしまったという肉体的な疲労がそれです。

 

もう一つは、心理的な疲れです。

 

たとえば、1日国際会議で、話し慣れない英語で外国の人と応対した日は、普通よりもずっと疲れることがあります。

 

この場合はむしろ神経性とか、心理的な疲れといえます。

 

学校で「疲れた」と子どもたちがいう場合の「疲れた」の多くは、後者の心理的な疲れのことが多いです。

 

 

 

すぐに「疲れた」を口にする子ども

 

A君の母親とA君の間では「疲れた」が合言葉になっています。

 

「もう少し勉強したら」と母親が言います。

 

「いや、僕はもう疲れた。これ以上できない」とA君は言って、途中で勉強をストップしてしまいます。

 

この場合の「疲れた」は、もうやる気がなくなった、おもしろくなくなった、興味を失ったという意味での

 

「疲れた」です。

 

とても気まぐれな疲れであって、「疲れた」という言葉が、もうやるのがいやだ、努力したくないという

 

代名詞になっています。

 

しかし母親は、本気で身体的に疲れたと思っている節があります。

 

「A君、そんなに疲れたのなら、栄養のあるごちそうを作るから、これを食べてまた頑張って」などと言う。

 

現代社会では、栄養不足の子どもがいて、そこで身体的な疲れがあって勉強ができない、などということは

 

比較的まれな話だと思われますが、A君の母親は、とにかく栄養をたくさん与えて、よく眠らせて休養させれば

 

疲れは取れると思っています。

 

ここで言う疲れやすいA君とは、すぐに疲れたという言葉を口にする子という意味であり、

 

それは意志が弱いとか、意欲が乏しいとか、すぐにいやになってやりたくなくなってしまう子ども、という風に

 

翻訳しなおした方がよいです。

 

どうしてお母さんは、「いつからいつまでこれだけのことはちゃんとやらなかったら、許しません」とか、

 

「これだけやらなかったら、恥ずかしい」とか、「しっかりしなさい」とか、

 

「人間にはやるべきことがあって、それを達成しなければ生きていけないのよ」とか、

 

そういう姿勢で子どもを厳しく応じられないのか、疑問が生じます。

 

疲れた、疲れたというと、すぐに身体のことを心配します。

 

生まれたての赤ちゃんならいざ知らず、もう小学生くらいになれば、ある程度ストレスを与えて頑張らせても、

 

子どもはちゃんと順応していくものなのに、

 

疲れたという言葉で、お母さんは、何とかしなくちゃいけないという方向でケアをしてしまいます。

 

学校に行って疲れたという場合でも、多くの場合、

 

このたぐいの「疲れた」があるのではないでしょうか。

 

「今日は1日学校でいやなことがあって、不愉快で、心がくたびれてしまった。

 

もう明日から行くのも大変だ、あんな学校はおもしろくない」、

 

あるいは、「1日いやなことを我慢していて、それで疲れた」、こういう意味での「疲れた」と口にすると、

 

お母さんは本当に身体が疲れたかのように思って、

 

うちに戻ったら大事に世話をしなくてはいけないと思います。

 

 

 

参考文献

小此木啓吾(2000) 「しつけの精神分析」 金子書房