現代社会における分断された「自我」

 

 

フロイトが「自我とエス」を書いた頃の、2つの世界大戦の時代のドイツに比べて、比較的安定した社会環境となった現代では、

 

超自我、エスともに、むしろ内部での分断が進んでいるのではないだろうか。

 

「何が正しくて何を信じればいいのか」、「自分のよって立つ道徳心とはどういうものなのか」、こんな混乱の中で、

 

人の規範である超自我は途方に暮れている。

 

「何が欲しいのか」、「どうしたいのか」、本来はシンプルなはずの自分の本能であるエスですら、多くの情報で引き裂かれている。

 

 

 

外部環境が過酷だったとき、人は外敵に対するナルシシズム的な引きこもりか、サディスティックな攻撃か、

 

どちらかの道を選択するしかなかった。

 

それが戦争を生み出した。

 

しかし現代では、外部環境は、先進国、特に日本という安全な社会ではとりあえず苛酷なものではなくなっている。

 

にもかかわらず、現代人が引きこもり、ナルシシズム的になっている理由は、

 

フロイトが考えたように不確実な現実を前にして、自我が不安定になっているからだろう。

 

 

 

さらに言えば、近代において「大衆」であったものは、世界全体に胡散霧散するグローバルネットワークの中にあって、

 

不透明なものになっている。

 

環境が安全でも、あるいはグローバルな世界が広がっていても、自我の不安はますます増えるばかりで、

 

かえって自我がナルシシズムの世界に閉ざされやすくなったともいえる。

 

現代では、人は狂気の要塞の中にではなく、むしろ引きこもりの小部屋に閉じこもる。

 

分断され、分裂して、断片化したものになりつつある。

 

 

 

フロイトの時代と様変わりした「群衆」は孤立している、そして自我の小部屋の中で体験できる仮想領域は

 

グローバルなインターネット上に広く拡張している。

 

そこで、さまざまな価値観に晒され、明晰な自我を失っていき、内面が分裂していく。

 

群衆として見たときの人々が、宗教的にはキリスト教とイスラム教、そして仏教の間に、政治的には右翼と左翼の間に、

 

経済的には格差社会の大富豪と貧困の間に、政治体制的には独裁制と民衆運動とが分断してみえるのは、そのためだろう。

 

その分断の中で個々人の自我は、超自我(道徳心)とエス(本能的な欲動や衝動)の間の調整役を放棄して、

 

ナルシシズムという力動をもった自我の小さな部屋のなかに閉じこもってしまい、寄る辺ないものになりつつある。

 

その小さな暖炉部屋で自我はあるときにはヒトラーになり、あるときには小さい赤ん坊のような姿をしている。

 

このような価値観が拡散して分断された社会が進行していけば、群衆が再びヒトラーの登場を希求するようになるだろう。

 

 

 

「自我は不安の宿る本来の場である」。

 

フロイトのこのような言葉が、現代社会に警鐘を鳴らしている。

 

 

 

 

引用文献 

 

妙木浩之(2017) 寄る辺なき自我の時代 現代書館