学ぶことの基礎

 

 

学ぶことにつきものの困難に立ち向かう力を獲得してきた生徒もいれば、そうではない生徒もいます。

 

どうしてそのような違いが生じるのかを理解するためには、乳幼児期の情緒発達に目を向ける必要があります。

 

子どもは就学前に、膨大な量をすでに学んできています。それまでに数え切れないほどの難しい状況に対処してきているはずです。

 

助けられもしたでしょうし、あるいは、耐え難さにさらされてきているかもしれません。

 

自分自身のことや自分の環境のことを感覚器官からの情報を通して学びます。

 

子宮内の胎児に、母親の身体的・精神的ストレスがどのくらい伝わるのかは、まだわかっていません。

 

しかし、新生児が感覚器官への襲撃を体験しているのは確かです。

 

あたたかい環境から、突然、寒さの中に突き出され、また、包まれていた状態から全身を外界にさらされるのです。

 

暗闇から明るい光の中へ、無音の世界から喧騒の世界へ。

 

自動的に栄養補給されていた状態から、食物源を求めて外界の対象と接触しなければならない状況へ。

 

フランスの医師、ルボイエ(Leboyer)は、このドラマティックな体験をできるだけ子宮内の状況を再現することで、

 

いかに外傷的ではなくせるか、臍の緒を切る前に、母親のお腹の上に赤ちゃんを乗せて身体接触をはかること、

 

できるだけ早く乳房をあてがうこと、新生児を暖かいお風呂に入れてやさしくマッサージすること、を試みました。

 

そうすると新生児の恐怖に満ちた泣き声が鎮まり、少しずつリラックスして、周りの世界を探索しはじめる映像には、

 

本当に驚かされます。

 

新しい環境が与えるインパクトが、それほど圧倒的ではないとわかって、新生児は好奇心を持って、

 

積極的に世界との接触を持てるようになるのです。

 

ウィニコットが述べたように、何よりも大切なことは、お母さんが赤ちゃんにこの世界を“少しずつ(in small doses)”

 

紹介していくことです。

 

もし変化があまりにも急であったり、頻繁であったりするなら、あるいはあまりに苦痛に満ちたものであったら、

 

乳児は恐怖で反応し、あげくには引きこもってしまうでしょう。

 

ほんの一時的な状況にすぎなくても、この世界があまりにも恐ろしく、苦痛なものだと感じられると、

 

乳児の好奇心は抑止され、学ぶ能力の抑止にもなるのです。

 

極端な場合には、他者との接触をいっさい断ってしまうことさえあるかもしれません。

 

経験の「積み木」があまりにも過酷だと、興味をもつことから引きこもってしまうか、あるいは状況を操作して

 

苦痛な体験を封じ込めてしまおうとするものなのです。

 

逆に、生後数ヶ月になっても、赤ん坊が助けを求める前に、そのニードをことごとく満たし続けるような母親は、

 

赤ん坊の単なる付属物になってしまい、赤ん坊の運動機能や言語、精神機能の発達を止めてしまうことにもなりかねないでしょう。

 

小学校入学までは、親を質問ぜめしていたような子どもが、急に好奇心を失ってしまう。これもまた、気がかりな例です。

 

これは、子どもが圧倒されてしまうほどに知識の山を提供されるからだと考えられないでしょうか?

 

あるいは、探究や実験で何かを発見していくのを良しとしないような教育方法が取られているのでしょうか?

 

乳児の欲求不満や苦痛に対する耐性は、最初は極めて限定されたものです。

 

乳児にはまだ時間の観念がないため、一つ一つの出来事が全体性をもち、そのために苦悩はすぐに圧倒的なものになってしまいます。

 

私たちは、赤ん坊が一つの瞬間から次の瞬間へと、つまり至福の状態からバラバラになってしまったように泣き叫び、

 

足をバタつかせ、震えるという状態へと変化するのを知っています。

 

このことは、母親が赤ん坊の抱っこして欲しいニードに即座に応えて、しっかりと抱いてやり、あやし、

 

授乳などしてやることが、極めて大切であることを物語っています。

 

しかし母親は、泣き叫ぶ乳児が乳房をとらえられず、顔を背けてしまうという状況に出会すかもしれません。

 

そして赤ん坊に腹を立ててしまうか、これがお前の欲しいものだと証明するといわんばかりに、赤ん坊の口の中に

 

乳首を押し込むかもしれません。

 

自分に自信のある母親は、赤ん坊の拒否に耐え、優しくあやして、赤ん坊の恐怖や怒りがおさまるのを待てるでしょう。

 

こうして、赤ん坊に乳房を与える前に、赤ん坊が乳房との良い関係を再建できる時間を与えられるのです。

 

最初の例では、乳児は、自分の望まない(悪い母親への恐怖に加えて)、いやな何かが無理に押し込まれたと感じるかもしれませんが、

 

その次の例では、乳児は良い母親に悪い感情を取り除かれたと体験するのです。

 

乳児の体験は身体的であり、かつ情緒的です。あるいは、心身的(psycho-somatic)なのです。

 

母親の中には、子どもが泣くとすぐに授乳する人もいますが、たいていは、子どもはいつもお腹が空いているわけではありません。

 

怖かったり、みじめな気持ちになるなどすると、抱いてもらったり、やさしく揺すってもらったり、子守唄を歌ってもらうなどして、

 

なだめられることがすぐにわかります。

 

親の身体的な関わりは、乳児が感じていることを親が理解しているということを表します。

 

子どもの泣き声を聞き、様子を観察することで、父母は、子どもの苦悩の性質が感じられるようになります。

 

パニックを起こしているのか、待たされすぎて怒っているのか、あるいはすぐに助けにきてくれないので、絶望しているのか。

 

親が赤ん坊のコミュニケーションの意味を理解して対応することは、赤ん坊自身が経験を消化する助けにもなります。

 

母親が、赤ん坊の恐怖に触れてもひどく脅かされなければ、母親は赤ん坊を抱きながら、恐怖は耐えられるものであり、

 

バラバラになってしまうことなく、その感情を抱えられる他者が存在するのだということを、情緒のレベルで伝えられるでしょう。

 

しかも逆も起こりえます。

 

すぐに恐怖に陥ってしまう母親は、赤ん坊の不安に耐えられないでしょう。

 

泣き声が届かないところに寝かせておいたり、泣き止ませようとして揺さぶったり、荒々しい扱いをするかもしれません。

 

これでは決して和らぐことのないパニック状態、ついには、外界から顔を背けるしかないほど希望のない状態に、

 

乳児を放置してしまうことになります。

 

おそらくたくさんの赤ん坊は、どこかで、こうしたトラウマティックな体験をしているはずです。

 

つまり、赤ん坊の成長が深刻に妨げられるのは、繰り返し繰り返し、苦悩が緩和されない体験を重ねた場合のみなのです。

 

 

 

乳児の良い体験と悪い体験は、最初、乳児のこころの中で非常にくっきりと分かれているようです。

 

乳児は最初、母親の良い側面に同一化し、より破壊的な要素を外界に投影する傾向があります。

 

あまりにも恐ろしくて圧倒されるので、自分のなかに保持しておくのが耐え難いからです。

 

同様に、乳児の抱くファンタジーは極端なもので、乳児の経験によって強化もされれば、緩和されもします。

 

乳房を強く握っている赤ん坊を思い浮かべてみましょう。

 

母親は、赤ん坊の攻撃性に脅かされて、乳房を引き離すかもしれません。

 

すると赤ん坊には、こんな小さな攻撃性でさえ有害で危険で、さらに母親は攻撃に耐えられないほど脆弱なのだと伝えることになります。

 

赤ん坊の制止を導くことになるかもしれません。

 

また乳児の攻撃的な行動に限界を設定できない親は、自分の破壊性に限界がなく、コントロール不能だというファンタジーに

 

承認を与えるようなもので、その結果、子どもはさらに脅かされるようになるのです。

 

ついには、あまりにも罪悪感が強くなるので、子どもは自分の与えた害の責任をとても負いきれないと感じ、

 

さらなる攻撃性を引き起こすことになるでしょう。

 

一方、赤ん坊の怒りにそれほど脅かされない母親は赤ん坊を手助けでき、赤ん坊は耐えられる程度にちょっとつねるのと、

 

実際に傷つけ、ダメージを与える行為とを区別できるようになるのです。

 

このように子どもが万能ファンタジーと現実とを区別するのを助けるうえで、親の接し方は決定的だといえます。

 

親との経験で、破壊的なファンタジーと恐れが減っていくと、最終的には子どもが自分の行為に責任を取れるようになるのです。

 

つまり自分が与えてしまった苦痛と、自分が愛し依存する他者の重荷になりすぎていないかを心配し、

 

気を遣うようになるということです。

 

つまり、他人を思いやれるようになるのです。

 

そして親が子ども中心ではない生活を送る自由を許し、自分が受け取ったものをうまく使いこなして、

 

これまで多くを与えてもらったことに感謝できるようにもなるのです。

 

これはあらゆる種類の仕事、責任感、そして創造性に通ずるものです。

 

 

 

発達は真っ直ぐ一直線に進むものではありません。

 

たとえウィニコットがいみじくも言ったように、“思いやりの段階(stage of concern)”に到達できたとしても、

 

絶えず、ふたつの心の状態を行きつ戻りつする傾向があります。

 

ひとつは、原初的恐れや迫害不安や被害感、また望み通り動いてくれない人への不平や恨みを抱く心の状態であり、

 

もうひとつは、基本的に他者に心遣いし、感謝し、自分の苦境にもできるかぎりの責任を持つという心の状態です。

 

 

 

怒りや嫉妬や羨望に直面しつつ、愛情や思いやりを保つための苦闘は、欲求不満や喪失のたびに生じます。

 

乳幼児期にこうした状況にどう対処し、あるいは対処できるように助けられたかは、後々の人生で対処する力に

 

深く影響するといえるでしょう。

 

あらゆる人間関係で、ある程度の欲求不満はつきものですし、よほど酷いものでなければ、実際には成長の糧にもなります。

 

子どもが、生活のさまざまな状況の中で、どれくらいの欲求不満に耐えられるのかは、親の微妙な判断事項です。

 

もちろん、わざと子どもを欲求不満にさせるような親はいないでしょう。

 

しかし、赤ん坊(そして、あるいは自分自身)がどんな苦痛体験も味わわないように必死になりすぎて、

 

子どものどんなきまぐれにも応じ、子どもの奴隷になってしまう親もいます。

 

あるいは機嫌が悪くならないようにと、お菓子やおしゃぶりや玩具といった代用品を常に用意している親もいます。

 

子どもは、自分の前からいなくなったり、他人と共有しなければいけない母親に頼るよりも、常に目の前にあって、

 

感覚的な満足を与えてくれるような、生命を持たない対象を選ぶようになるかもしれません。

 

たとえば、生後6ヶ月のヘレンは、とても親密で幸せな乳房との関係を築いていましたが、

 

離乳のときには怒って母親に背を向けるようになりました。

 

いつも自分のベッドで、ぬいぐるみのテディを抱いて、横になろうとするようになったのです。

 

母親は、ヘレンがテディのほうを好むので、自分が拒否されたと感じ、傷つきました。

 

また授乳期が終わった母親自身の悲しみを増大させることにもなりました。

 

この状況で、母親はヘレンと戦って、ヘレンの癇癪や涙に直面するだけの強さを持てず、ヘレンに譲ってしまったのです。

 

このような代用品は、辛い直面化を避けたい両者にとっては便利なものになりえます。

 

しかし親が子どもと一緒になって、避け難い欲求不満や抑うつを、長期間にわたってこんなふうに回避しつづけると、

 

深い人間関係や情緒体験に根ざしている思考の発達を促せません。

 

子どもが苦痛な感情の状態に耐えられるように、思いやりのある他者がいることをしっかり体験する。

 

これが唯一、子どもが生き抜き、生き残り、こうした状態を心の中に保持しておけると感じられるための支えとなるのです。

 

 

 

子どもは、繰り返される養育者との体験を基盤として学んでいきます。

 

恐怖に耐えてもらえるかどうか。

 

攻撃性や要求に制限がもうけられるか否か。

 

絶望や悲しみは勇気や思いやりによって和らげられるのか。それとも逃避されるべきものなのか。

 

コンテインされる経験を基盤にして、子どもは、こうした親の抱える能力を自分の心の中に取り入れられるのです。

 

これが、苦境に陥った時、情緒的な苦痛や苦闘に耐えうるように、子どもを支える内的装置を作ります。

 

情緒的に、精神的に子どもを成長させ、外的援助に依存し過ぎないですむような内的支援システムを提供するのは、

 

この内在化された良い抱える母親であり、父親なのです。

 

同時にそれでも必要な時には助けてくれた人がいたという経験が、外の世界には信頼できて助けてくれる人がいるという

 

信頼を育てるでしょう。

 

こうして子どもの内的世界は、逆境にあっても勇気を見せる大人という手本によって、もっと豊かになっていくのです。

 

困難な状況にあるときに支えてくれる。

 

こうして教師はみな、子どもの内的世界の導き手になるのです。

 

 

 

ここまで乳児の発達を助ける親の機能について議論してきましたが、もちろん赤ん坊の性質も、同じくらい大切な役割をとります。

 

まさに人生の始まりの時点から、生に対する積極性や、愛情を受け止めたり、愛情に応えるなどの力は

 

乳児によって非常に大きな幅があります。

 

満足しにくく、いつまでも些細な欲求不満に機嫌を損ねずにはいられない乳児もいれば、機嫌が直るまで時間がかかる乳児、

 

あるいはちょっとしたことで不快感を覚える乳児もいます。

 

このように、どのような養育を受けたかという個々の体験は、強力な主観的要素と結びついているといえるのです。

 

個人がいかに経験を持ちいるのかは、千差万別です。

 

どんな養育も十分にはならない難しい乳児もいます。

 

そういう乳児は、怖がりやすく、疑い深く、不幸せでしょう。

 

たとえば、ミルクを与えてくれる乳房について、自分の噛みつくような貪欲な感覚の視点から、

 

自分を飲み込む対象として体験している乳児がいるかもしれません。

 

もちろんこうした体験は、そののちの人生で、学ぶということを大いに妨げるでしょう。

 

またわずかの愛情や世話でさえ、目一杯使える乳児もいます。

 

乳児が気難しいほど、親にとっては、辛抱し我慢し続けるのが大変です。

 

ときには母親や父親は、恐怖に泣き叫ぶ赤ん坊に理解を持って対応しなければならないものですが、

 

それがたびたびだとすると、対応できるでしょうか。

 

貪欲さを制限し、不安と操作の区別をできるのでしょうか。

 

また離乳時の抑うつに対処できるのでしょうか。

 

親同士の関係や次の赤ん坊への嫉妬を理解して対応できるでしょうか。

 

これらは、親自身の乳児期や養育された体験から学んできた事柄によるのです。

 

言葉を変えれば、親が、その状況に持ち込む内的装置によるのです。

 

乳児と出会う最初のころの母親には、自分の乳児的事故を呼びさまされ、それに対処する自信がありません。

 

ですから、特に傷つきやすい状態にあるといえます。

 

そのために極めて重要なのが、母親の母親になってやれる夫の能力、彼女が赤ん坊の良い母親であり、

 

良い母親になっていく力があるという夫の信頼なのです。

 

また自分の母親や姑の援助を受けられる人もいるでしょう。

 

しかしこの体験が母親を助けるのか、それとも妨害となるのか、傷つけるのか。

 

それはもちろん、その母娘の関係や二者間のライバル心いかんによるでしょう。

 

母親がこういう外的サポートや強くしっかりとした内的装置を持っていないと、

 

幼い乳児が引き起こす大きな不安は耐え難いものになるでしょう。

 

赤ん坊から逃げ出したくなるかもしれませんし、圧倒されたと感じるたびに耐え難くなるかもしれません。

 

これは、剥奪のサイクルと呼ばれるものにつながります。

 

つまり剥奪を体験した母親が、自分の子どもを剥奪する傾向があるということなのです。

 

そのような親を責めても、何の役にも立ちません。

 

こうした母親は、我が子によって呼び覚まされた、乳児的で怯えた自己を、他者に支えられることが必要なのです。

 

 

 

ある関係性を持った二人は、いつも互いに影響し合っています。

 

とても反応の良い赤ん坊は、母親があまり抑うつ的にならず、自分の養育能力を引き出せるように助けているといえるかもしれません。

 

母親の優しい眼差しが赤ん坊の微笑みを引き出し、母親の満足となります。

 

こうした母子のカップルは、お互いに強く結び付けられていくでしょう。

 

むずかる赤ん坊は母親の忍耐に過剰な負担となり、そして母親の手荒い扱いが、赤ん坊のパニックを増大させるかもしれません。

 

またこの赤ん坊の叫びが、母親が自信と愛情をもって接するのをもっともっと難しくするという悪循環を生じさせてしまうのです。

 

これでは、お互いに適応するのを学ぶというよりは、より不適応を増大させることになると言わざるをえません。

 

このように、学ぶことの能力には二つの情緒的な要因がからみあっているようです。

 

ひとつは、愛と憎しみ(ある種、生来の要因)のバランスです。

 

これが外的世界についての見方を彩ることで、取り入れ、警官から学ぶ事柄をも彩るのです。

 

もう一つは、両親や子どもの周囲にいる重要な他者が、どこまで子どもに苦痛が調整される経験を与え、

 

そして世界を探索し、じっくりと味わえるような勇気と希望を与えてくれる援助的な関係を子どもが取り入れられるようにするかです。

 

入学してくる子どもたちには、すでに学ぶことや職員との関係を彩るのに十分で、しっかりとした豊かな経験があります。

 

しかし学校もまた、親とは違う大人の現実に対して、子どもが期待していることを試す新たな機会を提供するのです。

 

学ぶことには、不確かさや恐れや怒り、絶望がつきものです。

 

強い情緒や不安といったインパクトを取り扱うためには、他人の援助が必要なこともあります。

 

こうしたことを承知していて、世話や愛情や思慮深さを与えてくれる教師に出会える子どもは、幸運だといえるでしょう。

 

 

 

 

 引用文献

 

イスカ ザルツバーガー‐ウィッテンバーグ (著), E. オズボーン (著), G. ウィリアム (著), 平井 正三 (翻訳), 鈴木 誠 (翻訳), & 1 その他(2008)

 

「学校に生かす精神分析」 岩崎学術出版社